野の書ギャラリー

書家村上翔雲の作品を少しずつご紹介させてください。日々の雑感もほんの少し

堂徳山の灯り

こんにちは。

一昨日、用事で 神戸に行きました。

用事を済ませると、辺りが暗くなっていました。

車で 新神戸トンネルの方向へ行くために、元町方向から フラワーロードへ左折すると、ビルの間から 山が見えます。

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こちらの写真は 神戸市のホームページから お借りしました。

 

先日、happy-ok3さんの1月11日付のブログ(happy-ok3.com.)を拝見して 堂徳山の 「KOBE」の電飾の下に「1.17」の数字が 17日まで点灯されていることを教えていただきました。

自分の目で見る電飾の文字は、想像よりも大きく くっきりとしていました。

happy-ok3さんは、日本中の被災地域の現在の状況を 毎日きめ細かく報告されています。誠実で 温かなお話からは、 災害には 終わりはないけれど、思い遣りを持って人と人が助け合う大切さを忘れてはいけないという メッセージが響いてきます。

 

私は 被災はしていないのです。そんな私が どんなお話をしてよいのか 恐縮なのですが…。

 

阪神淡路大震災の時には、私は 息子を神戸のこども病院で診てもらうために 実家におりました。

地震の後、実家は 水道が使えましたし、電気も間もなくつくようになったので、父や妹と一緒にタンスや冷蔵庫を起こして、食器やガラスなどが散乱した部屋を片付けました。

大きな地震にもかかわらず、その日に新聞が配達された事に驚きながら 読みました。

公衆電話に並んで ようやく連れ合いに連絡を取りました。

 

ブルーシートの目立つ屋根。崩れたブロック塀。  道沿いの階段の上から 噴き出している水。

地震後間もなく 停電で信号が止まっており、急いで走る車ばかりで殺伐とした道路には 大きな穴が開いていました。

そうは言っても、被害の少ない地域でした。

数日後 連れ合いが迎えに来て、余震が続く実家を離れて 田舎の自宅に戻りました。

父母と妹を残して逃げるようで、申し訳なく思いましたが、こども病院も被害を受けていましたし、家族も なるべく早く子どもを病院へ連れて行った方が良いからと言ってくれました。

 

実家から自宅に戻る途中、混みあった道路を のろのろ進む車の中では ラジオが 休みなく被災地の 大勢の人々の伝言を伝え続けていました。「△△町の ○○さんは、今△△中学校に避難しています。」知らない方ですが、助かって避難されておられると聞くと ほっとしました。

みんなが 被災地を案じ続けている、そんな気持ちになる状況でした。

この後、毎日 辛くて厳しい情報が 新聞やテレビの報道で伝えられました。  

 

田舎の自宅では、普通の日常が続いていました。

電話が通じるようになり、友人や 親戚 と安否を確認しあいました。

何年も前に 中国語を教えてくださっていた 中国の方々は 被害の多かった地域の神戸大学に通われていたので、大変心配になりました。 後になって、大阪など近隣の市へ避難されたと聞きました。

 

被災地の交通は 止まっていましたので、

例えば 大阪に勤め先のある神戸の人々は まず大阪とは反対の西に向かって加古川駅へ行き、

そこから 単線の加古川線で、終点の谷川駅まで 約50kmの距離を1時間以上揺られてたどり着き、

福知山線に乗り換えて 大阪へ向かうという方法で 片道3時間以上をかけて 兵庫県を小さく ぐるっと回って通勤されていました。   

とても不自由をされたことでしょう。JRも連結を増やして増便したり(加古川線は、普段は1両編成で走っているそうです) 乗り換えをしないように便宜を図ったりと 工夫をされていたそうです。

それ以外の手段もなく 多分 今でもかなり確かな方法なのではと思います。

 

happy-ok3さんのブログを拝見して、被災された方の 長く続いているご苦労を思います。災害は どこでも起こることだからこそ、他人事にしてはいけない。  

わかっているつもりになっていては、いけない。

何かあった時に、自分は どう動けるのか、耐えられるのか。

 

 

田舎に戻って、京都の病院で診ていただいた小さな息子は 24歳になりました。干支が2巡したのですね。


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ご覧いただきまして、ありがとうございます。

 


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 「一日の労苦は一日にて足れり」マタイ伝 (300×210m/m) 聖句           村上翔雲 書