こんにちは。
暑い日が続きますが、お元気でいらっしゃいますか。
この時期、「カラスの山」から、「ヒグラシの山」になってしまう手前の丸い山の裾に広がる田んぼが美しく育つさまを眺めながら歩いています。
例年なら あちらこちらの田んぼで山田錦の幟が立ちますが、日本酒の売り上げの不振のための減産とのことで寂しく感じます。背の高い酒米 山田錦の姿を今年は見かけません。
夕方遅くに 少し気温が下がると、ここから さざめくような蜩の声が聞こえてきます。
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この度は、父の作品のことで かなり個人的なことを書き留めております。長くなり申し訳ありませんが、よろしければ どうぞおつきあいくださいね。
7月の終わりに、明石市立文化博物館に父の作品 51点を収蔵していただくことになりました。
広島県出身で 後に越した山口県岩国市に実家のある父は、兵庫県神戸市へ移ったあと 明石市に終の住処を得て、亡くなるまでの33年ほどを過ごしました。
明石ゆかりの書家として、収蔵してくださった明石市立文化博物館の皆さま、ありがとうございました。当日は 作品の写真を撮る許可もいただき、長い時間をかけて丁寧におつきあいくださいました。
父が亡くなってから 9年が経ちましたが、
その間 お忙しい中にも関わらず、ずっと父の作品の保存のためにご尽力いただきました名筆研究会の 井元祥山先生をはじめとする先生方のご熱意と、妹の父の作品への強い強いきもちに従うようにして 私も微力ながら作品の記録などを手伝わせていただいてきました。
先生方は 所蔵していただく作品として、柿本人麻呂 (明石には「人丸(ひとまる)さん」と親しまれている柿本神社があります) の歌や、松尾芭蕉、種田山頭火、永田耕衣、石井峰夫、西脇順三郎などの句や詩による、父の代表作を選んでくださいました。
名筆研究会の先生方には、この間 数えきれないほどの作業や 博物館の方とのお話し合いを前に立ってしていただいたことや、その都度ご足労をいただいておりますことを心から感謝いたします。
そして、私の拙いブログをご覧くださる皆さまからは いつも励ましをいただきまして「野の書ギャラリー」を続けてくることができました。
こんなささやかなブログをご覧いただくことは とても有り難いことなのだと しみじみ感じております。
いつもありがとうございます。
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この度、この件で 普段は記事の後にお名前を拝見するだけだった神戸新聞社 明石総局記者の吉本さんに博物館で取材していただき、家族から見た父についても少しお尋ねいただきました。
後で、版が違うから我が家では手に入らないかもしれないと 掲載された新聞記事を送ってくださる方もいらっしゃいまして 感謝して拝見させていただきました。 妹が 私のスマートフォンでも様子をこっそり撮ってくれていましたが、取材してくださる吉本さんに対して なぜか頭を押さえながら四苦八苦の態でお答えしている様子に見えてしまう私 (ちゃんとお答えせねばと とろい頭で必死に考えていたのは確かです…)がどうにもお見苦しいので、その写真は控えます。妹はなぜその瞬間を撮ったのか…
父の作品をものする姿勢は、家族から見てどういうものであったかと、他の方からも時折お尋ねいただくことがあります。
生前の父をご存知で、ご覧になられるとご不快に思われる方がいらっしゃるかもしれません。それでも、私は 家族として この機会にこのようなことも飾らず書き残しておきたく思います。
優れた芸術家は、大勢、本当に大勢いらっしゃいます。
ご存知の通り美術館や博物館の収蔵スペースは限られていて、その上 紙の作品は湿度管理や害虫対策など 保存するためにはかなりの手間とお金がかかります。
始めの方に少し書きましたが、父が亡くなった後、遺された作品をどうするのか、私には取り立てて考えはありませんでした。
父は情が深くて家族を大切にしてくれる人でしたが、感情の吹き出しようには とてつもない苛烈さがあり、
作品を突き詰めるためには、また自分の意志のためには、へつらいや妥協はもちろんのこと、日常さえも撥ね付けて飛ぶ矢のようなものであったと、家族として感じております。
どこのご家庭でも程度の差はあっても このようなことはよくあることと思います。
何の才能もない私は、普段の父を悪く言うつもりはなく、今はなるべく多くの作品を保存していくために書家としての父の人生を辿り続けているだけに過ぎない者ですが、そんな私から見ても
父は ただひたすらに道を求める人生だったと思います。
よく印象に残っていますのは、晩年になって何度も入院した時に 看護師さんやスタッフの方々で希望されることがあると、喜んで自筆の書道や硬筆の手本をコピーしたものを差し上げていました。
皆さんも繰り返し練習してくださっていたようでした。感謝の言葉も度々いただき、父は「いろんな人に書を楽しんでもらうことが仕事だから」と嬉しそうに申しておりました。
初めて 父について書いたような気持ちがいたします。このブログの成り立ちの性質とは言え、個人的過ぎる堅いお話になりまして ご覧くださる方には本当に失礼いたしました。
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今年は、終戦から75年ですね。
自分の子どもたちが大きくなるに連れて、
我が家の墓地にある 天辺が四角錐になったお墓を掃除する時に、そこに眠っている 義父の長兄の「種ちゃん」(またもや勝手に 私だけがそう呼んでいます) に話しかけるようになりました。
お盆の前、杉林を抜けたところにあるこちらの墓地の蝉時雨はツクツクボウシです。少し湿りのある濃い緑の匂い。照り返しが眩しいです。
種ちゃんの時間は、数えの23歳で止まっています。ソロモン諸島の激戦地ブーゲンビル島で戦死したと墓石に刻まれています。
連れ合いも私も確認していませんが、多分お骨はありません。
戦争や紛争は、いまも世界中で止む間もなく続いているけれど、年齢などに関係なく 誰にとっても人生はかけがえのないもの。
親でもある私は、これから広がる未来があって 毎日が新しくて 悩みも楽しいことも全身で生きる年頃の人には、どうしても幸せでいて欲しい。誰もこんな目に遭って欲しくない。
心からそう思います。
今日は、所蔵されておられる明石市から許可をいただきました寄贈の作品から、早速披露させてください。(所有者は変わっても、著作権は別で 死後70年は私ども遺族に所属するのだそうですが、こんな日が来るなんて夢のようです。)
この詩を書で表現した 拳を固め飛礫の前に向かい立つような作品を 私などが出させていただいて良いのか。なかなか思い切れなくて、ブログにあげるまで長くかかってしまいました。
「ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ」
(69×135cm)
原爆詩集 序 峠三吉 詩 村上翔雲 書
明石市立文化博物館所蔵 (作品11-1.2)
今日も ご覧いただきましてありがとうございます。
野の書ギャラリー