こんにちは。
こちらは 晴れて暖かくなりました。
気づくと前回から10日以上経っていました。その間 娘に優しいコメントをたくさんいただきました。娘もたいへん感謝しております。
本当にありがとうございました。
クリスマスローズのそばに植えていたフロックスブルーパフュームが そろそろと咲き始めました。1年振りの可憐な花に心が和みます。
我が家の石楠花は、今年は元気がないようです。色も寂しくて 世話が足りなかったかと話しています。
去年亡くなった伯母の小さな庭。そこにある池の回りを 雪の下が取り巻いています。池に流れ込む地下水の音が小さく聞こえてきます。
赤いランナーが見えています。花には まだ早いようですが、葉は天ぷらなどにするとおいしくいただけますね。
いつの間にか、この伯母の池のそばに キランソウ(と思われる花)が 咲いていました。
上の花と下の花の形が違う不思議な咲き方をしています。落ち着いた佇まいに 優しかった連れ合いの伯母を思い出します。
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我が家の 葡萄茶色の手をすぼめたような葉から出てくる もみじの花は、どちらかと言えば木の全体が暗い印象もあり 目立たずに咲いています。花言葉に「遠慮」などと聞くと、奥ゆかしくもあり かわいそうにもなります。
主張しないので、あまり目につかない姿ですが、近寄って見ると 吊り下がって咲く花をかわいらしく思います。
何日かすると、縮んだ葉が手をふわと広げるように 一斉にもみじの姿を見せてくれます。「美しい変化」という別の花言葉は 花より葉の様子を言っているのでしょう。やはり花の時期は疎んじられているのかと思います。
同じく風によって受粉する風媒花と呼ばれるスギが咲き終わり、ヒノキも最盛期を越えて花粉症も少しずつ治まってきました。
近くの薬師堂の季節の進んだ桜に若葉がつき始めました。
ヒヨドリとウグイスの鳴き声が聞こえます。
足元には、ムラサキサギゴケかどうかと迷う花が 少しだけ咲いていました。這うように茎を伸ばしています。人に踏まれてしまっていました。
農道へ出てみると、暖かな日差しのもと さらにたくさんの同じ花が咲いていました。
慎ましい印象の優しい花ですね。
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父の上梓した本に「ひょうごの野の書」(神戸新聞出版センター 刊) という 兵庫県の石碑を巡る文を纏めたものがあります。
父が訪れた 111箇所の石碑の記録の中に、神戸市須磨区の須磨浦公園にある「正岡子規の句碑」の拓本があります。
ひとつの石に 正岡子規と高浜虚子の句が並んで 刻まれていますが、ここでは、子規の句碑として捉えています。
子規は、後のことを頼みたく思うほどの稀有の才を持つ弟子に 虚子の雅号を与えて 34歳(あとひと月ほどで35歳だったようです) で早世したそうです。
2月初めに 私たちが出掛けた時に撮った拓本と同じ句碑の写真です。大きな石でした。
向かって右に子規の句。
『虚子の東帰に
ことづてよ 須磨の浦わに 晝寝(ひるね)すと 子規』
左に虚子の句。
『子規 五十年忌
月を思い 人を思ひて 須磨にあり 虚子』
師弟の句が並んで彫られています。
父の拓本は、子規の作品部分を採っています。
2月に私たちが出掛けた頃には コロナ感染症は心配されていましたが、思い返せば 街中でなければ外出もできていました。
🌿🌿
正岡子規は、明治28年(1895)日清戦争に記者として従軍し、帰国の船で喀血します。神戸病院での入院を経て、須磨保養院で1ヶ月養生しました。高浜虚子が付き添っていたそうです。
8月に 子規は松山へ帰りますが、父の「ひょうごの野の書」によると、
「虚子は東京へ帰ることになる。子規は次なる一句を託す。
〈 (虚子の東帰に) ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと 〉
子規は 明治三十五年(1902)、三十五歳で鬼籍に入る。
時うつり、昭和二十六年(1951)。子規五十年祭のため松山に向かう虚子は 須磨に立ち寄り、往時をしのんで
〈 月を思ひ人を思ひて須磨にあり 〉と詠んだ。」
そして、昭和28年(1953) 4月に、それぞれの真筆で 須磨に併刻建碑されたとのことです。
「子規は『書は技巧にすぎると俗におちる』と考え、常に書の純粋性を求めたようである。とくに、歌人として どういう書をかくかということに腐心し、イノチの通うた書を求めつづけた。なかなか見事な生きざまであったと思う。」 ( 🌿🌿印 以下ここまで、「 」内 すべて村上翔雲 著 『ひょうごの野の書』 文の通り )
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拓本は、書などで使う画仙紙などを 石碑などに水で張りつけたところに、墨を染み込ませたタンポという 布を丸く巻いて持ち手をつけたものを 何度も叩き込んで写しとるものです。
墨を使いますので、汚したり 傷つけないように気をつけて、石碑を所有されている方に許可をいただいてから採らせていただきます。
さらに私事になりますが、
本のための父の取材の折りには、今月 4月1日に亡くなられた 文学研究家の宮崎修二朗先生に、何度もご同行いただいて ご教示いただきました。
宮崎先生は、この本の出版をはじめ 父の書道家人生に 智の光を照らし続けてくださった方と、深く感謝しております。
父が晩年に 体調を崩して滅入っていた頃、「ぬるめのお湯で召し上がれ」と 選んでくださったお茶を つい微笑んでしまう一言と共にお贈りいただいたお心遣いが忘れられません。父は 上記の本のあとがきに、「宮崎修二朗先醒」とお呼びして尊敬の心を伝えさせていただいておりました。
宮崎先生のご近況を ブログで何度も拝見させていただきました詩人の今村欣史さんにも 感謝申し上げます。
今村さんが 4月7日付の神戸新聞に寄せていらっしゃった『「触媒」として生き抜いた』との追悼文が心に染みました。
宮崎修二朗先生の ご冥福をお祈りいたします。
正岡子規のお話を随分といたしましたが、
今日は 宮崎修二朗先生に深いゆかりのある 富田砕花先生の詩歌をご覧ください。
「異邦
この邦の巡禮は 約束としてまず言葉を奪はれる
言葉を封ぜられたものは ただ黙して動くばかりだ
見えない力は 不可抗の強さを持って働いてゐる 砕花 詩抄」(300×200m/m) 富田砕花 詩
「岩壁の感触をふと懐い(おもい)居り 半世紀前の夏の穂高の 砕花の歌」(300×200m/m) 富田砕花 遺歌集「属目散趣・玄々鈔」 村上翔雲 書
ご覧くださいまして ありがとうございます。
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